その6「ある日のグロスカウンター」

いつものようにマスターのK氏と貧乏話をしていたらドアが開いた。思わず目をこするほど背の高い若い男が大股で入ってきた。
「すみません、コーヒー豆を下さい」
近くで見ると俳優の古尾谷雅人に似た精悍な顔だった。
「何キロですか?」
Kはすぐこういう馬鹿な冗談を言う。
「え?皆さんキロ単位で買われるんですか?」
可哀想な古尾谷君は本気でたじろいでいたが僕はいつものグロスカウンターの端に座ってやりとりを見ていた。
結局彼はブレンドを300グラム注文した。
「ペーパーフィルターですか?マシーンですか?」
今度は冗談じゃなくKが聞いたが古尾谷君は質問の意味がわからないようだった。
「だから、コーヒーはどうやって入れられます?」
古尾谷君はやっと安心したように素直に答えた。
「カップに粉を入れて、お湯を入れて、混ぜて・・・」
まあ、こういう時に人が示す表情は似たり寄ったりで、たぶん僕とKとはまったく同じ顔をしたに違いない。いわゆる「目が点」というやつ。
腹をくくったKはドリップコーヒーの基礎知識をレクチャーし始めた。古尾谷君は大きな体を折り曲げるようにして頷いていた。恥ずかしがりもせず、悪びれずに講義を受けた後、彼はKが教材で入れてくれたコーヒーに砂糖とミルクを入れ、うまそうに飲み干した。
「有り難うございました。これでまたちょっと大人になりました」
ペーパーフィルターとドリップ道具と300グラムのコーヒーを大事そうに抱えて堂々と帰っていった。
僕とKは同時に深いため息をついた。
「でかいね」
「すごいですね」
僕は自分が外も内も豆粒ほどの小さな人間のような気がして、もう一度こっそりとため息をついた。
Kの話では古尾谷君は400メートルのなかなか素晴らしいランナーらしい。グロスにはいろんな若いお客さんが来るが、共通しているのは一人で来るということ。
僕はそういう若者が好きだ。
古尾谷君の疾走している姿を一度見てみたい。

 

もどる