その12「無力の速さ」

泳ぐ男がただ20分ずっと映っているビデオだった。
目の錯覚か、ビデオの操作を間違ったのかと思わせる程のゆっくりとした動き。
クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ・・・どこにも力の入っていない不思議な体の移動でその男は黙々と水を進んでいく。
難波さんは僕の最年長の友人だ。満89歳の先輩を友人と呼ぶのは誠に身の程知らずの罰当たりを承知で僕は難波さんを友人と呼ぶ。たまに無性に会いたくなる、話をしたくなるのが友人だと思っているから。
その難波さんの卒寿の記念に撮影されたビデオを見た。僕はカナヅチじゃあないけれど難波さんの泳ぎを見ていると自分の泳ぎがどれほど野蛮で脂ぎって痛ましいものか、見ずともわかる。
力をどこまで抜けるか、それは考えようによってはとてつもない高い目標だ。難波さんはこの十年ほどそれを本気でやっている。僕の目にはそれはすでに完成し、熟しているのだけれどご本人はまだ先を見ておられる。
僕達岡山で美術、工芸の仕事をしている者で大コレクターの難波さんを知らない者はまずいない。河合寛二郎、奥村土牛ら多くの偉大な作家との親密な交流のみならず最近は現代美術にも親しまれ、そのコレクションは広く、深く、美意識と人生観の見事な表現に達しておられる。
実業家として先代から引き継がれた会社を大きくし、若い頃はスキーヤーとして名を馳せ、実業のかたわら一代で膨大な美術コレクションを築き、会長職に退かれた後も岡山の経済、文化界のご意見番として活躍された難波さんが何故この摩訶不思議な泳ぎを完成させることに熱中しているのか、僕はなんとなくわかる気がする。
何も欠けることなく十全に生きてきた希有な人生にとって、それらの重みと釣り合う軽さがやはり必要なんじゃないだろうか。力とも技とも違う無力の生。水の中で水になるということ。水を空気として滑空する翼。
人が生きるとは摩擦だ。若い時は摩擦のない人生はつまらない。それを克服し、やっつけ、力をつけていく。流れに流されるのは敗北で自らが流れを発生させることさえ試みる。だが、大きな力を手にした者ほどその力の限界を深く知る。
難波さんの泳ぎはどこにも力を感じさせないのに実は結構速い。流に流されるままなのではなく、摩擦、抵抗を限りなくゼロに近づけることで人は速く生きる。
わかっているのだ。僕だってその理屈はとうにわかっているのだ。僕はある時難波さんに尋ねた。
「どうやって力を抜くんですか?」
難波さんは眼鏡の奥で悪戯っぽく笑って答えてくれた。
「自分で自分の力を抜くのは無理じゃ。僕が力を抜けたのは80歳を過ぎてからじゃった。つまり力がなくなっただけなんじゃ」
そういうことなんだ。意図して力を抜くなんてことは人の技ではないのだ。あれば使ってしまう。それが人間というものなのだ。哀しいけれど僕は深く納得した。
であれば、下手に力を抜くぞ!なんて力んでもしょうがない。相も変わらぬみっともない悪あがきでやっていくさ。そして運良くいつかストンと力がなくなってしまったら、僕もプール通いをしよう。難波さんのことを考えていたらふと漆芸家の角偉三郎氏のことなどを思い出した。
この続きはまた次回。

 

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