その19「仙台土産長ナスの漬物」   2005/5.31   

人の不安の根元には幾つかの単純な言葉があると思う。その言葉が単純であればあるほど答えは見つからない。その最たるもの、つまり誰にとってもの難問が「何のために生きているのか」という言葉だ。これにバシッと正しく答えられるなら少々のトラブルや落ち込んだ気分なんか問題にならないはず。
ところが「何のために生きているのか」わからないから激しく揺れ動く。揺れて動いてセンターがぶれる。揺れが治まってもしつこい船酔いみたいに不安は解消しない。「まあいいや」という特効薬が効かない。表面を何とか取り繕っても中身がいつまでも悪寒に震えている。
世の中の元気な人を見ていると、その多くは「何のために生きているのか」を考えずに済んでいるに過ぎない。富や快楽の蓋でその問いがのそのそはい出てこないように閉じこめていたり、忙しすぎて起きてすぐに数えたり決めたり動き回ったり笑ったり怒ったり疲れたり飲んだくれたりしているうちに夜が来て寝てしまう暮らしをたまたま何十年も続けていたりするのがこの社会に生きているということなのだ。そして恥ずかしながらこの僕もそうやって生きている。わかりやすく言えば「何のために生きているのか」を思い悩むより「どうやって生きていくのか」の問題が断然優先されている。
Kさんという友人がいる。彼はとても優秀かつ恵まれた人で、東大を出た後幾つかの仕事を経て今は幾つかのマンションを所有し、寝ていてもあくびをしていても飲み過ぎて気を失っていても生活の不安のない鉄壁の人生を手に入れてしまった。そのKさんがたまに電話をしてくる。僕がまだ生きていることを確認すると「いやあ、矢野さんはすごいなあ」とのたまう。毎回同じパターンなのだけれどその度に心から驚いてくださる。彼が電話をしてくる時はだいたい酔っぱらっている。ここからは僕のひがみをこってりとまぶした想像なのだけれど、することのないKさんは夕方になると当然酒を飲む。ああうまいうまい、と杯を重ねるうちに例の蓋がそおっと開き始める。「何のために生きているのか」と聞こえてくるとKさんは反射的にその問いとは最も無縁そうな僕に電話をしてみるに違いない。
そんな僕にだってスキが生まれることがある。
先日、個展で仙台に出かけ、帰途につくために仙台空港で時間待ちをしていた。搭乗手続きも終え、お土産も買い、することがなくなってだだっ広い二階フロアーのソファーに座っていた。場内に時々流れるアナウンス以外は妙に静かで、チケットを眺めたり北の空をぼんやり見上げたりしていたらスキができた。何故かふと思ってしまったのだ。「オレはこんなところでなにをしているんかいな・・・」と。
そんな殊勝なことを思ったのには実は理由があった。その前日せっかくはるばるやってきたのだから仙台の美術館やギャラリーを見て回ろうとと思い立ち、調べてみたらなんとこの東北を代表する大都会の仙台市に美術館は宮城県立美術館が一つあるきりで、街をいくら歩けどもギャラリーらしきものはまったく見当たらなかった。
僕は考えた。つまり、世の中のほとんどの善良な生活者にとって美術も工芸も本当は必要ないのだ。そんなものこの世から一二の三、で消えてなくなったって圧倒的大多数の人は何も困らず、平和で豊かで面白可笑しく生きていけるのだ。そんな前日の記憶が仙台空港のガランとした大空間に不安のつぶやきをこだまさせたらしい。
危なかった。もう少しで「何のために生きているのか」を本気で悩むところだった。だが僕はすんでのところで正気に戻り、踏みとどまり、勇ましく、もう一度売店に向かって力強く歩み始めた。グロスマスターKへのお土産を買い忘れていたのだった。Kのふざけた顔を思い出し僕は空虚の淵から生還した。
ちなみに、前述のマンション所有のK氏とKはまったく別人である。こんなに言うまでもないことは滅多にないぐらいK氏とKは別々の人である。
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