その21「我が価値論、それなんぼ?」 2005/9.12

カメラマンのHくんがバッグから小さな箱を取り出してグロスマスターKに渡した。ここグロスの特徴の一つに頻繁に物のやりとりがおこなわれるということがある。カメラ、レンズ、コンピューター、旅のお土産、それらが時には厳しい値段の駆け引きを通じて、時には無償で、時には微妙な心理的仕掛けを忍ばせて、行き交う。どうやら今日のブツはFMラジオで、無償らしい。Kはお礼を言うのも忘れてさっそくイヤホンを耳につっこんでいる。Hくんの言うところではそれはいわゆる百均の商品なのだが百円ではなく二百円だそうな。もう何が百円でも驚かなくなってしまったが、そのブツを見る度にやはりなにがしかの感慨はある。
ラジオと聞くと僕らの世代は子供の頃に組み立てたゲルマニウムラジオを思い出す。だいたい一月分の小遣いぐらいで買えたのだが不思議なことに電池も使わずにラジオ放送が聞けた。そうして手に入れたゲルマニウムラジオは昭和三十年代の少年にこの世界と科学を通じてつながる最初の経験を与えてくれたし、イヤホンから流れる音楽も言葉も自分が所有しているという感覚を初めて実感させてもらった。正確にはそれらを聞く権利を所有しているというべきなのだが少年にはそんなことはどうでもいい。とにかく初めてまともなモノを所有した誇らしさにぶっ倒れそうだったのだ。
HくんがラジオをKにプレゼントしたのは別に何か下心があったわけではなく、ただ最近買ったMP3プレイヤーにラジオチューナーがついていたから要らなくなったということらしい。そこで僕とHくんはイヤホンを突っ込んで心ここにあらずになってしまったKをほっといてMP3の話を始めた。
MP3プレーヤーは言うまでもなく超小型超高性能の携帯音楽プレイヤーで、下でも何百曲、ちょいといいものになると何万曲という想像を絶する大量の音楽をそのライターほどのボディーに収納できるというけしからん機械だ。その音楽ソースはCDでもいいし、ネット配信でもいい。最近ではネット上で音楽が手に入るからCDさえ売れなくなってきた。つまり音楽がレコードだとかCDというモノではなく形のない信号として流通しているということになる。それらすべてがデジタル革命の成果だ。僕とHくんの検討の結果、結局世の中に存在するもののうち、デジタル化できるものは音楽であろうと映像であろうと最終的にはタダに限りなく近づくのではないか、ということになった。
僕だって音楽や情報がタダで手にはいることは有り難い。でもタダになったとたんに有り難みがなくなる、ということもある。昔僕達は音楽を所有するためには一曲あたり百円以上のコストを払っていた。それは子供の小遣いの使い道としてはかなりの贅沢だったし、録音機材がなかったのだから借りてもひたすら聞くだけだった。つまりすべての経験に緊張感があった。どんな一瞬も取り返しがつかなかった。少なくとも文化に関しては僕はタダがいいとは思わない。今のタダ文化は言うまでもなく広告という仕掛けの上に成り立っている。フリーペーパーも街頭で配られるティッシュペーパーも民放のテレビ番組もスポンサーが金を払っているから僕達はタダなのだ。それらは仕掛けが丸見えだから罪もないんだろうが「え、これもタダですか?」みたいなものがあったら警戒すべし。何を隠そう僕が恐れているのはみんながタダに慣れてしまってお金を払ってモノを手に入れることが嫌になってしまいやしないか、ということなのだ。
それは困る。僕の作品に広告をつけるわけにはいかない。いや、そう言えばかつてはアーティストにはパトロンというスポンサーがついていたよなあ。あれはいい。あのシステムがあれば僕達は作品を売るという重荷から解放される。でも昔の筋の通ったパトロンは見返りを求めなかった。そこが今の広告文化とは血筋が違う。
ああ、何を考えているんだかわからなくなった。タダのラジオで何を聞いているんだか知らないがKの人を食ったような顔を見ているうちに頭が混線してきた。おいおい、Kよ、おまえは大丈夫かい?不安なんてヤワなものはあんたには縁がないの・・・?  ないみたいだね。

 

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