その22「悲惨な闘い、グロスにて」 2005/11.28

「今朝の新聞広告にでてましたよ。D50ボディーにズーム一本付いてナナキュッパ。もう決まりでしょ。買いましょ、ね!」
Kはコーヒーを入れながらいつものいわくありげな上目遣いで僕を見ている。ここのところずっとこんなムナシイ話を繰り返している。いい歳をした男二人が十万円もしないブツをねたに妙な駆け引きを繰り返す姿はさぞかしみっともないに違いない。 要するに僕もKも一眼レフデジカメが欲しいのだ。できることなら相手に買わせてちゃっかり使う権利だけを取得できたらなあ、と目論んでいるわけだ。
「もう売れるのがわかってるんですから買ったらいいじゃないですか、え?」
ほとんど恐喝である。これは僕の十二月十三日から始まる岡山天満屋の個展のことを言っているのだ。そんな根も葉もないことを根拠に恫喝されては僕も意固地になろうというものだ。
「だからよお、半分ずつ出そうやって言ってるじゃねえかよお、気持ちよく四万ずつ出して要る時に使えばいいわけじゃん。わからんか、このアホ!」
オトコの意地にしては明らかにみみっちい。だが引くに引けない。そんな悲惨な闘いに同情してか見るに見かねてか、ギャラリーEのI君、ライターの野田君が自分のカメラをいつでも使っていいと申し出てくれた。
「おおきに、おおきに、やっぱり持つべきは友ですなあ」僕はさっそうと帰っていく男野田君の後ろ姿を見送った後、Kを横目でにらんだ。
これはもちろん本気である。一見貧乏ゲーム、ケチごっこのようにも見えるだろうがマジである。僕もKも間近に迫っている支払いが心に重くのしかかっている。大の男が気に病むほどの額ではないかもしれないが、とにかく一眼レフデジカメよりは高額な支払いだ。欲しい物が手に入らない時僕は変な理屈でそれを合理化しようとする癖がある。結果から言うと「これは一種の贅沢だ」ということである。
もし我々が普通の金持ちならばカメラぐらいふらっとカメラ屋に行って買ってしまうだろう。そしてしばらくあれこれいじりまわしてやがて次の欲しい物を見つけ、また当たり前みたいに買うのだ。
ところがどうだ、僕とKとは一眼レフデジカメというささやなネタでかれこれ一年はつまらないいさかいを続けている。手に入れることができないということはひょっとしたら素晴らしいんじゃないか。それは「自由」とか「愛」とかという問題と同じ性質なのかも。手に入れてしまうと変質し、失望するかもしれないことを我々は本能的に感知していて、いつまでもその幻の輝きを見ている知恵を持っているのだ。僕にとって、Kにとって、もはや一眼レフデジカメは現実のモノではなく、自由と愛と真実の仮の姿なのだ。これ以上の贅沢があるだろうか。
ところで、僕は天満屋の個展のDM用写真をI君のカメラを借りて撮った。今は野田君のカメラを借りている。 友情は美しい。これも持たぬ者の贅沢なのさ。どうだ!

 

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