その23「去りし年、去りし人」 2005/12.31

こぞことし つらぬくぼうのごときもの
これが誰の句であったか、あるいは無名の人の戯れ句であるのか思い出せもしないが年の変わる時分には必ず一度は呟いてしまう。
世間がそろって同じ方向を向くような時、条件反射的にその反対を向く癖のある僕はこういうひねたようなしらけたような句はとても素直に理解できる。だからというわけでもないが正月にもっともふさわしくないようなことを書いてしまおう。
昨年末、僕は岡山天満屋で2005年最後の個展を開いた。その二日目の12月13日、Kさんが亡くなった。
Kさんから電話があったのは10月2日だったと思う。
「矢野君、あんたには本当に世話になったなあ。まあいろいろ気にいらんこともあったじゃろうがゆるしてやってくれや。実はなあ、ワシ癌じゃて。昨日医者からはっきり言われた。今年いっぱいじゃて。」
僕は「えっ・・・・・」と言ったきり声が続かなかった。僕が黙っていてもKさんはしゃべりつづけていた。
Kさんを初めて見たのはちょうど30年前のことだ。僕は大学を三年で休学し、ジャズギターの修行に東京に出たのだがお金がなくなり、岡山に帰ってきて最初にギターで仕事をしたのがKさんの経営していたヴィラという店だった。
その最初の日に当時すでに髪が薄くなりかかったよく太った紳士がちらと僕を見に来た。それがKさんだった。僕は結局一週間ほどでその店を辞め、Uというキャバレーのバンドに移ったからKさんはその時のことを覚えていなかったかもしれない。その後数ヶ月でそこも辞めて今度はTというパブのピアノ、ベース、ギターというトリオに移り、大学を卒業するまでの二年近くそこで仕事を続けたのだが、そのTという店もKさんの経営する店だった。
Kさんは何故か僕を気に入ってくれてステージの合間にあれこれ話をした。大学を卒業後、僕が怪しげなデザイン事務所をまがりなりにも五年以上続けられたのはKさんがまるまる面倒を見てくれたからに他ならない。その五年ほどの間に僕はこの社会の仕組みというものをいくらか理解したつもりだったが、知らず知らずのうちにそれはKさんの目で見た社会観であったと思う。
だから僕としてはKさんにいくら感謝してもし足りないのだが、何故か晩年のKさんは顔を合わせるたびに、電話で話をするたびに、僕に礼を言ってくれた。ところが僕には礼を言われる覚えはないのだからいつも戸惑うばかりだった。最後に会った10月3日、Kさんはまた僕に礼を言った。
「ワシが高松に店を出すと言った時、あんたは無闇と手を広げるのはよくない、と言ってくれたなあ。あれは正解じゃった。ワシがこうして今アンティーク屋をやっていられるのはあんたのお陰じゃ。本当に有り難う。」
Kさんは多い時は十軒ほども持っていた店を次々に整理して、いつからかイギリスから家具などのアンティークを輸入し、今ではステンドグラスだけでも3000枚を所有する全国的にも名の通ったアンティーク屋になった。それは事実なのだけれどKさんの言った二十数年前の僕のセリフというやつに僕はまったく覚えがない。そんな忠告をしたことは絶対にない。
Kさんはどこかで記憶を組み替えて僕を恩人に仕立てた。何故僕をそんな居心地のいい場所に配置してくれたのか、それはよくわからない。たぶん、きっと、そこが空いていたのだろう。誰かをそこに据えなければKさんのバランスがとれなかったのだろう。
人には恩人というものが必要なのかも知れない。ありがとう、と言い続けられる人が必要なのだろう。
Kさんが死んで、僕はその一人を失ってしまった。

 

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