その25「再びKさんのこと」 2006/5.16

前々回、昨年末亡くなったKさんのことを書いた。それから数ヶ月、僕は高知と倉敷での個展を終え、松江と神戸の個展を控えて「くそっ」とか「あれれ」とか「あーあ」とか「どないしょう」とか、まともな大人とはとても思えぬ独り言を呟き、時々グロスでもっと奇怪な話をしては仕事にいそしんでいる。
だが、この一週間ほどまたKさんのことを考えている。それはKさんのお嬢さんが電話をしてきて7月にKさんを偲ぶ会を催すのだが、それまでにKさんの本を出すことになったから何か書いて欲しいということなのだ。
僕は打ち合わせを兼ねて久しぶりにKさんの家を訪ね、お嬢さんや奥さんとKさんの話をした。本の体裁は追悼の文章のページを除いてだいたいの形ができていた。そのゲラを見て、僕はKさんの74年の時間を改めてたどることができた。そしてなんだか不思議な気分になった。
たかだか一人の人間の一生、でもその同じ時間にこの国は勝利、敗北、屈辱、栄光、罪、繁栄、狂乱・・・ありとあらゆる極端を歴史に記してきた。そのけばけばしく無慈悲な時代をKさんは見ようによっては見事に乗り切った。
生き馬の目を抜く歓楽街の商売で成功し、会社を興し、最後は全国でも有数のアンティーク輸入の会社を作って、残した。それらはゲラ刷りの中に含まれたたくさんの写真がコマ落としの記録映画のように物語っている。
だが僕はKさんと数年一緒に仕事をする中で生身のKさんと結構深く関わった。その中で感じ、今改めてはっきり感じるのは、決してKさんは柔軟に、上手く生きた人ではなかったということだ。それはそういう能力が無かったのではなく、敢えて違う生き方を貫いたんだと思う。
とにかくよく喧嘩をした人だった。時には聞くに堪えないようなひどい言葉で相手を罵り、声を震わせて怒鳴った。いつも喧嘩相手を求めているような生き方だった。そうまでしてKさんが守った価値観とは何だったのか。
そやは一言で言うなら「反体制」という単純な価値観だった、と思う。もちろんそれは政治的な意味ではない。体制というもの、多数派というもの、組織というもの、損得を共有する人の群れというものが持つだらしなさ、少数者への鈍感さ、冷酷さ、微温の醜さへの強烈で孤独な闘いだった、と思う。
この見方に異を唱える人もいるだろう。「いや、彼は抜け目がなかった。結構冷酷で計算高かった」と。確かにそう見える面もあったし、Kさんに切り捨てられた人もいたが、それ以上にKさんに拾われた人がいる。ここにもいる。もし、Kさんがただの抜け目無い商売人であったならもっと多くの富を残していたに違いない。
先日Kさん宅におじゃまして奥さんと話をした時、奥さんは目に涙を溜め、なぜか嬉しそうに、「あのね、パパはね、死んでからわかったんだけれど全然お金を残してないのよ」と言われた。あれほどの頭と情熱を持った人が一生働き通して残したのは会社と家族だけだった、ということ。見事ではないか。
なぜ僕がKさんの生き方にこれほど思い入れるのか、と不思議に思われるかもしれない。それはこうやって生前よくわからなかったKさんの心を辿ってみると、そのセンターにあるものがまるで僕と同じだからだ。それをこの愚かでお目出度い僕は自分のオリジナルだと密かに思っていた。だがもしかしたら僕が完全に漂泊する馬の骨であったころにKさんにかけられた催眠術だったのかもしれない。僕は一生覚めない催眠術を柱にして妙な塔を建てているのかも知れない。
それならそれでいい。どうせ一生覚めないのなら、覚めたらどうしよう、と怯える必要もない。たぶん僕はKさんほど見事にその美学を貫いてなお成功することはないだろう。結末として財産を残さず、という部分だけはもっと完璧に再演できそうだが・・・。
あれれ、グロスマスターKよ、何度も頷くところを見ると君もかい?

 

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