その29「屋根の上のギター弾き」 2006/12.2

何故か今回のキーワードは「屋根」。
屋根といって先ず僕が思い出すのは一枚の写真だ。それは四十数年前日本を襲った伊勢湾台風の被害を受けた隣人が後に送ってくれた写真なのだが、屋根に家族がまたがり、それをお父さんが撮ったらしき一世一代の家族記念写真だった。その屋根もほとんど水没寸前で、もう少し増水していたならその家族は全員伊勢湾に流されていただろう。そんな時にカメラを持ち出したお父さん、そのカメラに向かっておそろいの笑顔を向けていた家族はある意味戦後の日本人の象徴的な姿にも思えるし、かなりすごいと思う。
僕はその家族の隣に数ヶ月前まで住んでいたのだが父親の転勤で伊勢湾台風には遭っていないし、屋根にも登っていない。その後、それぞれに歳月は流れ、僕は僕の屋根に登ることになる。
時は1970年代、世は革命だ、自由だ、闘争だ、安保だ、と騒然とし、僕はと言えば芸術だ、ジャズだ、何が何やら解らぬがとりあえず反体制だ!と面白がって知らぬ間に屋根に登って浮かれていた。別に僕だけがアホだったわけではなくみんな似たようなものだったのだ。 そして1973年、我ら屋根の上のお調子者にドバッと冷水を浴びせたのが「オイルショック」だった。別に大学なんか卒業しなくてもどうにでもなるや、と思い切りタカをくくっていた僕達はビックリした。どうやらどうにもならないらしい、と気が付いた、つまり賢い順に一人また一人とすごすごと屋根から降り始めた。
降りるところは見ていないのだが、数年経つと彼らは何とか社会に適応し、それぞれの生きる場所を見つけていた。あのいちご白書をもう一度にあるように髪を切り、似合わぬスーツでこっそりもぐりこんだ社会の中でいつのまにか違和感を感じさせずに生きていく方法を身につけていた。 もちろん僕は彼らを恨みがましくなんか思わない。あのひどい就職難の時代にそれまでのパッパラパ自由を捨てて下げたくもない頭を下げ、悔しい思いを山ほどして生き抜いていった彼らは立派だったと思う。
ところで、僕は結局屋根から降り損なった。気が付くのがまるで遅かったのだ。気が付いた時にははしごははずされていた。そこでもまだ他の選択肢はあったはずなのだが、僕が思ったのは『こりゃあ一生屋根の上か・・・』ということだった。
まだどこかにはしごは残っていたはずなのだが、それを探しもせず、馬鹿な腹をくくってしまったのさ。他にも同じような馬鹿仲間がいたが、ある者は屋根の上にまた屋根を築き、ある者はエイヤッと屋根から飛び降り、ある者は泣きながら「ええ眺めやんけ」と言い続けてギターなんぞ弾いている。
この感じは少し上の団塊の世代の人達にも少し後のバブル世代の人達にも解らないはずだ。大学在学中に学園紛争とオイルショックを経験した人間だけがわかる「根本的な頼りなさ」と言ったらいいだろうか。
最近なぜかあの頃のことをよく思い出す。そして僕なりの数十年の経験を通じて勝手な分析をしてみるのだが、もしかしたらはしごを降りるにはそれなりの手形とか権利とかがあったんじゃないだろうか。例えば親の力だとか個人の免許、資格だとかそういうものが全くなかった者は僕ほど馬鹿でなくても降りるはしごはそもそも存在しなかったのかもしれない。かれらは時代によって屋根の上に押し上げられ、時代によってはしごをはずされた。
今でも僕は屋根の上にいる。すっかりここが僕の居場所になってしまった。時々「いったいおいらは何故ここにいるんやろか・・・」と思うこともあるが、「ははは、オモロイ、オモロイ」とやけくそではしゃぐこともある。屋根の上のタコ踊りにもかなり疲れてきたが、もちろん降りるはしごはない。 それにしてもあの家族は台風の大水が退いた後どうやって下に降りたんだろう。たぶん消防団か自衛隊が救出に来て、はしごをかけてくれたんだろう。それは彼らが被災者だからで、我々はもちろん被災者じゃない。「知らぬ間に時代の大水が来て他に逃げるところがなかったんですよ」なんて寝言は世間は聞いてくれない。そんなに降りたかったら飛び降りろ、と言われて飛び降りたやつは一生回復しない大けがをした。
そんな勇気もない僕はバンドマンをやり、インチキデザイン事務所をやり、今もアーティストとして屋根の上で「サムイ、サムイ」とか「アチチ」とか日々を生き延びている。
さてさて、今日も屋根の上のグロスで苦いコーヒーでも飲むとするか。「K君、楽園コーヒーひとつ、ね」

 

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