その43「赤い筒」 2009/3.29

誰にも口癖があるがグロスマスターKのそれは「ちょうどいいところへ・・・」だ。
言われた方は『まずいところへ来ちゃったかなぁ』と一瞬ひるんで身構えるのだけどそんなことにはお構いなく用事を言いつけられる。
版画家のT君はうどんを買いに走り、翻訳家のNさんはボロコンピューターの修理をする。別にちょうどいいところへ来たわけではないのだがKの頭の中には自分の用事がいつもいくつかリストアップされていて、それを頼める相手が来た時が「ちょうどいい」時になる。だからこちらとしては話題を選ぶのにもつい慎重になる。Kの用事をうまく避けなければいけない。用事センサーを刺激してはいけない。
「今日はこれからテンプラ(岡山にある天神山文化プラザのことをこう呼ぶ)で木工よ」僕は年に何度か木工みたいなことをする。フレスコ画のフレームや彫刻の台を作ったりするのにテンプラの設備のレンタルは安くて広くて有り難い。四時間広々とした教室と設備を使わせてもらって1000円だ。でもそんな話がKの用事センサーにひっかかるとは思わなかった。Kの虚ろな両目の奥が恐ろしげに底光りした。
「本棚が一杯になっちゃいましたよ」微妙な間「あと二段ほどあると助かるんですけどねぇ・・・」
見ると確かに本棚の文庫があふれている。『シマッタ』と思うがもう遅い。アリ地獄に吸い込まれていく幼気なアリの子のように僕は弄ばれ、それでも喘ぐようにあがくように抵抗を試みる。
「だけどよお、いくらおいらがイイ人でもよお、材料がなくっちゃ友情の示しようがないわなあ」
Kは恐ろしい底光りをたたえたままゴソゴソと店のどこかから汚らしい長い板を引っ張り出してきた。
『そんなもんどこに隠しとったんや!オマエは手品師か』と驚くのだが出てきてしまったものはしょうがない。負け、である。
さて、翌日。僕は完成した二枚の棚板と電動ドライバーを携え再びグロスへ行った。お客さんの邪魔にならないタイミングを見計らって(こういう時に限って切れ目なくお客さんがいる。それも一人ずつ)棚板をとりつけ、目出度く本棚には文庫用の二段が確保された。
何故僕ともあろう者がこうもやすやすとKの役に立ってしまったかといえば、実はいくらか責任めいたものがないではなかったのでしょうがなかったのだ。
とある日、何の話の流れであったか忘れてしまったが(たぶんいつもの貧乏話だったんだろう)本の話になって「おい、どや、みんなの読み終えた本を持ってきてもらって持ち帰り自由のグロス文庫を作らんか?」と僕が提案するとKはものすごく複雑な表情で気色悪い間の後同意した。Kの灰色の頭脳がえげつなく高速回転している。
しばらくして行ってみるとKは先ず自分の部屋にあった蔵書を二三十冊持ってきていた。そのうちに常連の弁護士さんもその民主共同体的趣旨に賛同してくれて(ただ置き場所に困っていただけかも知れない)やはり数十冊の文庫本を持ってきてくれたらしく、その時点で本棚からはみ出してしまったわけである。
棚板を取り付けて数日後に行ってみるとそれらの本は気持ちよく本棚に収まっていた。本の背表紙を見るのは楽しい。何となくその本を選んだ人の人柄みたいなものがうかがえて、それも面白い。僕にとっても懐かしい本があったり、一冊も読んだことのない作家のものがあったりで、ささやかだがわくわくする。何の気なしの思いつきがこういう文化的(恥ずかしいほど大げさですなあ)な結果を生むと僕としても気分の悪かろうはずがない。早速借りて帰ろうと二冊の文庫を選び終えた時、目の端になにやら赤い筒のようなものが映った。見ると郵便ポスト型の貯金箱である。
『なるほどねぇ・・・』Kの顔を見ると目を逸らした。あの時の複雑な表情の正体はこの貯金箱だったわけか。
僕は半ば呆れ、半ば感心して財布から小銭を数枚取り出し、その赤い筒の口に突っ込んだ。「チャリン」なんだか泣きたくなるような軽い音がした。Kはものすごく嬉しそうである。道に落ちていても子供でも無視しそうな小銭でこれだけ満足する人間は珍しい。まさか塵も積もりに積もって一財産を築く夢を見ているのではあるまい。
「やっぱり透明な瓶かなんかにして中のお金が見えるようにしておいた方がいいかも知れませんねえ・・・」
宙をボンヤリ見つつブツブツ独り言を言っている。
欲深いんだか、ただの小銭フェチなんだか、それとも僕には想像だに出来ぬ何かがKを突き動かしているのか。
底知れぬ人物である。

 

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