その49「DAY DREAM BELIEVER」 2010.4.12

一週間ぶりにグロスに行った。グロスマスターKは珍しく嬉しそうな、恥ずかしそうな顔をしている。この一週間グロスではシュガークラフトの展覧会をしていた。砂糖を材料にして花や人形をつくる工芸の一種で文字通り甘くロマンティックな作品がグロスのいつもの澱んだ雰囲気を一変させている。グロスらしくない、と言えばその通りだが誰しも自分らしいことばかりしていると澱んでくる。
「ご婦人方がたくさん来られたか?」
「はい、たくさん来ていただきました」
「そらあ、えかった」
「ケーキもたくさん出ました」
「客単価が上がってよかった」
「いえ、そうじゃなくてこの作家さんが作ってこられたのを皆さん買って帰られたりここで食べられたり」
「儲けはなかったわけ?」
「そうです。でもうちでもそれをやろうかと。一個百円ぐらいのを手に取れるように置いておくんですよ」
変に目が輝いている。荒れ野に一筋の光が差し込んだのだろう。
その後僕はコーヒーを飲み三本の煙草を吸いいくつかの話をした。我々共同所有の一眼レフデジカメニコンD40Xのボディー内部のどこかにダニが一匹入り込んでいるという話、僕の作りかけホームページのトラブルの話、
僕がこの一年自分の歳を一歳上だとずっと思いこんでいたという話、二日ほど前グロスがついに破産して閉店した夢を見たのだが、あれは予知夢だったんだろうか、という話・・・どれもどうでもいいといえばまったくどうでもいい話であり、カメラにダニが住んでいてもとりあえず対処法もなく撮影に支障はないのだからやはりどうでもいい話である。
そろそろどうでもいい話にも飽きて帰ろうかなと思っているとグロスカウンターにも何度か登場してもらった彫刻家の時光君(以降ときちゃん)が来た。ときちゃんは4月24日から倉敷の加計美術館で大きな個展をするのだがそのポスターやちらしを持ってきていた。岡山大学の大学院で貧しくも面白い青春をおくった野良犬仲間であり、ときちゃんは自分の持ち味を十分に磨き上げて美術大学の教授になった。僕は自分の持ち味を十分に磨き上げて今でも野良犬のままである。
僕達は4月の展覧会の話やら共通の知人の話やらをいくつかした。さっきのKとの話よりはもう少しどうでもよくない話である。そのうちにKがふと何かを思いだしたようにカウンター横の倉庫の中に入ってなにやら探している。こういう時にKが思いつくのはKにとっては一大事なのだがそれ以外の人にとってはどうでもいいことかやっかいなことのどちらかである。
Kがときちゃんの前に差し出したのは高さ15センチほどのブロンズ像だった。ウエストを締め付けた優雅なドレスを着て高く髪を結い上げ、リュートらしき楽器を弾いている座った女性像なのだが彫刻家であるときちゃんにその技法やら時代やら価値やらを教えてもらおうという魂胆であるらしい。
「こういうの、大学の資料としても一つは必要なんじゃないですかあ」
おまけにできたら売りつけようという魂胆である。
ときちゃんは困ったような顔をしつつも材質、鋳造の仕方など技法的な解説をしてやっていたがKが本当に聞きたかったのは一言で言うなら「これ、なんぼ?」ということである。そんなこと骨董趣味などまるでないときちゃんにわかるはずもない。作家の中には自分の制作世界の周辺にも興味を広げ、歴史的なことやそれにまつわる芸術分野の経済のことなどに詳しい人もいるが僕もときちゃんもそういうことにはあまり興味がない。ただ、ときちゃんになくて僕にあるのは「はったり」である。
「あのな、これは19世紀後半のフランスの作品で同じようなものが昔サザビーズのオークションに出たことがあるけどスタートが確か700ドルぐらいだったかな」
Kは複雑な表情で一瞬僕の目を見て「700ドル、700ドル・・・」と呟きながら仕事に戻った。もちろんそれらはすべてでたらめである。なぜこんなもっともらしいでたらめを言ってしまうのか自分でも不思議なのだがこのくらい具体的な数字でないとKは引き下がらない。
さてKを一応納得させた後ときちゃんと僕は再び彫刻の話を始めた。多分彫刻をしたことのない人(ほとんどの人だろうが)には得体の知れない、ぼんやりとした話にしか聞こえないかも知れないが僕はときちゃんの話がとても面白かった。
一般的に人物像などをつい「彫刻」といってしまうがこれは彫って刻むわけだから正確には石や木の塊を刃物で少しずつ小さくしていきながら形を探るやりかたでカービングという。それに対してときちゃんたちがやっている木や針金の芯に粘土をつけて、つまり量を増やしながら作ることをモデリングという。もちろん増やしつつ部分的には削り取ったりもするのだが削る一方の彫刻とは違うので彫塑とよんだりすることもある。
最近ときちゃんはそのモデリングを基本としつつも出っ張ったところと出っぱったところの間のへこんだところを集中して見るようにしているというのである。中から外へ向かう力と力の隙間に何かを見つけたようなのだ。こういう言葉は言葉をいくら自由に紡ぐことの出来る人でも知ることはない。原稿用紙やコンピューターのモニターを百時間眺めていても決して現れては来ない。言葉の無い世界でモノと自己との関係を煮詰めて煮詰めて夜が更けていく経験をいやというほど積み重ねているうちにやはり言葉でない光を見るのだ。それを敢えて言葉に置き換えたに過ぎないのだが僕はこういう会話が大好きだ。
今日はいい日だった。Kも微妙に満足そうだし。
多分今夜僕はグロスがつぶれる夢は見ないだろう。
ときちゃんはへこんだところに宿っている光の夢を見るだろう。
Kは幻の700ドルの夢を見るだろう。
 おやすみ。

 

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