その72「 グロス珈琲、かくも苦し」 2018/2.1

二人の友人のことを書こう。

一人はJという。二十年ほど前知人がある男に会ってみてくれ、と電話してきた。その男は中国系の実業家でなぜかガラスをやっている人を探していると言う。
数日後僕はそのJと岡山で会った。随分昔のことなのでどこの店に入って話をしたのかなど細かいことはすべて忘れてしまったがどうやら彼は神戸異人館通りのあたりでガラスのギャラリーだか美術館だかをやってみたいということだった。でも彼自身はガラスの作家もグラスアートのシーンも全然知らないというのでとりあえず数週間後に奈良であるガラス作家のグループ展でも見に来ないか、という話になった。
Jは僕と同じ年ぐらいでアメリカの大学(UCLAだったと思う)で学び日本に帰ってきて事業を始めた。そういうバックグラウンドのせいかいたってフランクでフレンドリーで初対面の堅苦しさなど最初から全然なく、まるで昔から友達だったような感じの印象だった。

奈良のグループ展の初日僕がギャラリーで待っていると水平対向エンジン特有の大型バイクのような音を響かせて黄色いポルシェがギャラリーのガラス窓を震わせながらやってきた。
奈良には一時間ほどいただろうか。僕はその日は大阪の心斎橋で自分の個展もあるので夕方までには心斎橋交差点のあたりまで行かないといけないというと「ほなら乗せて行くわ」とJが言った。 ポルシェの助手席に乗り込み『電車賃浮いたなぁ』とせこいことを考えながら良い気分でJといろんな話をした。
僕は基本的にはギャラリーなんて儲からないからやめたら、と言ったのだがJはなんで売れんのかわからん、と言う。彼はどうも何をやっても失敗したことがないようだった。しかし俺ならそういう商売でも成功させてみせるというのでもない。要するに儲からんことを一度やってみたいということらしかった。
もう十年以上も会ってもいないJのことを僕が今でも友達と思いたいのはそのやりとりがとても面白く、その後そんなことを言う人間に会ったことがないからかもしれない。
儲からないことをやってみたいと言っても成功した人間がよく言う社会に利益を還元したいというのとは全然違う。単に彼はみんなが本気で必死になってやっていながら儲からない世界に興味がある、ということに過ぎないようだった。
僕を御堂筋で降ろすと黄色いポルシェは爆音を残して夕暮れの車の群れに消えて行った。

もう一人は金重有邦(ゆうほう)さんである。
有邦さんは焼物好きなら誰でも知っている備前の陶芸家で特に茶道具が素晴らしい。先日亡くなった陶磁器研究家の林家晴三さんも有邦さんの茶碗が大好きで個展の初日によく来られていた。 その有邦さんの個展が一月に岡山天満屋であった。大の有邦茶碗のフアンであるNと土曜日に行き、若い(といっても50過ぎであるが)陶芸家のS君が有邦さんを紹介して欲しいというので月曜日にも行った。月曜日はちょうどやはり備前の人気作家である隠崎隆一御夫妻も来られていて有邦さんも隠崎さんも大好きなNには申し訳なかったがみんなでいろんな話が出来て楽しかった。
有邦さんの話はとても面白い。物事をよく見ているしはっきりとものを言う。そこに幾分自虐的なネタを上手い塩梅でまぶすのだから面白くていつまでも話を聞いていたくなる。多分有邦さんは焼物屋としての強烈な自負と土を焼いたらなんでも焼物やんけ、みたいな矛盾した両極が分ち難くよじり合わされていて文字通り一筋縄ではない。その二筋縄に金重家という名門の血筋が流れているのだからややこしくて面白いのも当然である。
今回の個展で僕が一番惚れたのは「黒茶碗」であった。
唐津の土、釉薬を備前の窯で焼いたものでまことに変化の多彩な黒だった。作りは無造作、奔放に見えて最後は見事に風格を持って閉じている。一つの茶碗の中に季節、いやもっと茫漠とした時間の移ろい、人の心の迷い、決断、悲嘆、歓喜、手の中で茶碗を回せば永遠の回り舞台のように黒が流れ続ける。
その秘密は何なのか。その問い自体が野暮でしかないことを承知で敢えて言えば僕は「破」ではないかと思う。
長次郎の黒楽が完全の中に閉じ込められた森羅万象であるなら有邦さんの黒茶碗には蛮勇を持って起こした「破」が生み出した豊穣な世界の秘密がある。
焼物の世界でよく使われる「景色」という言葉がありそれは「変化」と言ってもまずまず良いと思うのだが、例えば白い茶碗のある一カ所に何故か現れた違う色、表情、それは釉薬のかかり具合なのかあるいは炎のあたった場所なのか、様々なことが土を窯で焼く時に起こって現れた変化の結果、それを景色というのだと思うがもう一度言い換えるならそれは「不完全」である。
日本の焼物、特に茶陶に特有の美意識の根本にあるのはその不完全というものではないだろうか。不完全には人の心が入り込める入口があり、そこにはありとあらゆる物語が出口を求めてうずくまっている。その出口とは見る人の人生であり見る人に相応しい物語が言葉ではない言葉で静かに語られるのだ。

Jが無意識のうちに欲していたのもその「不完全」「破」の中にしか存在し得ない自由の味ではなかったか、と僕は思っている。
何もかも思うようになる人生には味わいがない。儲からないことをやってみたいと聞くと傲慢にも聞こえるがあれほど頭のいい人間であるからこそ自分の人生の豊かさにはない味、景色を予感し、欲していたのではないか。
成功は確かに甘い。だが甘いという味覚には深さが足りない。辛味、苦味には大人が噛み締めゆっくり味わうことの出来る奥行きがある。破綻、失敗、頑張っても頑張っても思うように事が運ばない人生は何と味わい深いのだろう。

ところでグロスマスターKよ、君の入れる珈琲がかくも苦い理由が今わかったような気がするのだが知らんふりをせずにちょっとこっちを向いてくれないかね。ま、甘いものもたまには欲しいよなあ、たまには、一度ぐらいは・・・

 

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