最近二冊の本を読んだ。僕は月に一二回図書館に行く。館内のコースはだいたい決まっていて、小説、美術、料理の順に二三冊ずつ選び、そそくさと十分ほどで帰る。
図書館の機能はまことに有り難いのだが、なぜかその雰囲気が好きではない。今回読んだ二冊の本は図書館の本ではなく知人が書いた本を頂いたり又借りしたりして手元にあった本だ。
福島清さんという画家にして登山家の書いた「男達の神話」(みずのわ出版)と詩人の三沢浩二さんの「馬松集」(本多企画)。
僕は先日大阪心斎橋のギャラリーで個展をした。その時ほんのわずかの時間だったが福島さんに会った。福島さんはギャラリーで会うよりは信州あたりの吹雪の山小屋でぼそぼそと夜話でも聞かせていただけたらさぞしみじみとしそうな髭面の大男だった。
ちょうどその頃僕は「男達の神話」を読んでいたので「福島さんの本を読んでいたら夜眠れなくなりましたよ」と言った。福島さんはややこしい笑顔で「眠れんようになったちゅう人とよお眠れるちゅう人がいてはりますなあ」とおっしゃった。
実は僕が眠れなくなった理由は福島さんの独特の文体のせいだった。なんと表したらいいのか迷うが、ある種の冗舌体、口語とも文語とも違うやたらとセンテンスの長い、しかも単語一つ一つにねっちりとしたアクのある、とにかく読みにくい文体なのだ。でも途中で投げ出すのも悔しく、読み続けているうちに、百ページを過ぎたあたりから不思議なことに読み辛さがなくなり、変な快感が現れた。それは簡単に言うなら僕が本の中に入れてもらえた、ということなんだろう。
もう一冊の著者三沢浩二さんとは数年前まで毎週お目にかかっていた。同じ大学で同じ曜日に非常勤講師をしていたので一限前の朝の僅かな時間に世間話をする程度のお付き合いであった。「馬松集」は詩集ではなく評論などを集めたエッセイ集で、主に詩のこと、詩人のことを独特の目線からしっかりと見、深く深く考え抜いておられることがよくわかった。
この二冊の本の内容についてはここでは触れない。何が言いたいかというと、僕がいかにものを知らないかということ。福島さんと三沢さんの博覧強記に呆れた。福島さんは僕より五つ、三沢さんは二十ちょっと年上だが、そういう年月の問題ではないだろう。言葉や本という世界とのつき合い方の問題、人生における読書の重要さの度合いの桁が一つ二つ違うのだろう。それは当然人格そのものに厚みとして、深みとして現れる。
僕は浅い。おちゃらけている。恥ずかしい。僕の知識には体系がない。漢詩なんて一行もそらんじることができないし、まともな哲学書も読んだことがない。文学もいわゆる古典というやつが苦手で、わざわざゲテモノを選んで読んできた。般若心経も知らないし、本業の美術書の類でも有名な評論書や理論書などははなから読む気がない。とにかくないない尽くしのスッカラカンなのです。
今回二人の男の分厚い知識を背景にした本を読んで、僕は本当に恥ずかしかった。それはいっそ清々しく、堂々と白旗をあげる気持ちよさ、を味わった。『すごいお人がおるもんやなあ……』と嬉しくなった。こういう読後感は悪くない。その数日後、三沢さんが亡くなったことを知った。人生とはこういうものかもしれない。『ちょっと待ってよ、それはないやろ……』誰に向けてかは解らぬがそう言いたくなる。せめて「馬松集」の感想を伝えたかった。「ほとんど解らんかったけどめちゃめちゃ面白かったっす」と言いたかった。
感謝の言葉はすぐに伝えなければいけない。その機会が失われた時、人は自分がイヤになる。知識がないことも恥ずかしいが、僕は三沢さんにお礼を言えなかったことがつくづく恥ずかしい。その翌日、福島さんにお礼の手紙を書いた。福島さんからはすぐにお返事を頂いた。こういうことなんだと思う。人としての大きさ、立派さというのは。ますます恥ずかしくなった。
グロスマスターKのご厚意でグロスに「男達の神話」を置いています。最近心が空虚だなあ、とお思いの方、ガッツリと歯応えのある本の好きな方、山の好きな方、絵の好きな方、是非読んでみてください。グロスの苦味の強い香ばしいコーヒーとまことに相性が良いのでは、と思うのであります。秋だしね。 ヨロシク。