「なんで斜めなん?」
「寸法測り間違えてドアが開かなかったんです」

久しぶりにグロスに行ってみると何だか違う店に来たみたいだった。とにかく壁も天井もすっかりリニューアルされていて驚いた。カウンターの向こうでグロスマスターKはどうや!と言わんばかりに反り返っていたが僕の質問にはちょっと恥ずかしそうな気配を浮かべて俯いてしまった。その斜めというのは隅に置かれた真新しい冷蔵庫のことで真っ直ぐ普通に置いたらドアが手前の作り付けサイドボードに当たって開かなくなったということらしい。こういう間抜けなところを一つはちゃんとやってくれるのが腐ってもグロス、ということだろう。

グロスカウンターを書くのも一年ぶりなのだがこの一年にグロスは大きく変わった。かつてのややこしい昭和のジジイの溜まり場というイメージはどこにもなくてものすごく若い女性ばかりが次々と来店されている。しかも皆さん飲み物だけでなくケーキも注文されているからKはとても忙しい。そんな状況が一年続いてその尊い労働が店内のリニューアルに実を結んだのだろう。それではかつての昭和魑魅魍魎たちは貴重な居場所を失ったのかというとそうではなくて麗しいお客さん達が帰る夕方以降に入れ替わりにゾロゾロと湧いて出るらしいのだ。よかったね。

どう考えてもこれはグロスの進化であり、それがKの弛まぬ努力の成果ではなくてもめでたいことに変わりはない。ずっと続くと思われていたか細いロープの綱渡りを続けていたら知らぬ間にちゃんと舗装された道に出ていたのだからKの安堵たるや如何ばかりか。ただしまた知らぬ間に足元を見たら舗装道路が綱に化けているということもあり得る。人生は面白いね。

さてこの一年の僕と言えば相変わらず個展をいろんなところでしては崩壊寸前のボロ布のようになって帰ってきて猫に慰められるという生活の繰り返しであった。実は今も岡山で個展の最中で今日はお休みにしてこんなことをしている。岡山市の中心部にあるアンクル岩根ギャラリーというのは古いお付き合いの岩根さんという方がしている個人ギャラリーであるが他のギャラリストとは少し出自が違っていて元は地元の山陽放送のアナウンサーをされていた。その頃から音楽や美術がお好きでそんな番組をよくされていた。ここでの個展ももう5回目かな。4回目かもしれない。このエッセーのバックナンバーを丁寧に読み返してみると(そんな暇な人はいないよね)僕が嫌いなもの、苦手なものが大体お分かりになると思うがその一つが「メディア」というものだ。メディアの人たちのあまりに軽い体質がどうにも合わない。もしかしたらそれは自分の中にあるどうしようもない軽さ、浅はかさが鏡に映ったようで腹がたつのかもしれないが根本はどうあれ僕はメディアの悪口を何度もここに書いてきた。実はこの岩根さんにも時々腹がたつことがある。それは少なからず「この人物はメディア出身」という僕のバイアスのせいだと思うしどんなことでも強力なバイアスをかけるとそう見えてくる。そこは本当に自戒していかなければと思うのだがついご本人にも失礼で辛辣なことを言ってしまう。それを許してくれているからこそ長くお付き合いをさせてもらってきた。いやはや。如是自分がかけている色眼鏡というのは自分の意思ではなかなか外せない。まずかけていることを意識できない。「自分は世界を正しくフェアに見ている」と思い込んでいる。思い込んでいることを疑うというのは至難であってそれにはもう一人の自分の存在が必要なのだろう。その思い込みによって人間は自分の「枠」というもの、つまり自我を形成している。一度自我を解き放ってどうなるのかを見てみたら面白いかもしれないがその時に現れる自我形成以前の自分なんて恐ろしくてやはり直視できないだろうなとも思う。僕が猫を見ていて飽きないのはこの自我という厄介な衣装を脱ぎ捨ててみたらこんなんだったらいいな、と思っているからかもしれない。

どんなに勇敢で自由に生きているような人にも何かしらできないことがある。もちろん倫理的にしてはいけないからしないようにしていることもあるが逆にしてみたいし全く誰にも迷惑がかからないようなことでも何故かできないことがある。生理的にブレーキがかかってしまう。数えきれないほど何度も何度もしてみようかと思いながら今まで一度もしなかったこと、きっと皆さんにもあるのではないだろうか。それもある意味自分という存在の輪郭線であり自我のデザインのキモになっているのかもしれない。

一体こいつは何を言おうとしているのか、と訝しんでおられる方も多いと思う。今までの経験から皆さんはややこしいことを大袈裟に言い出すとこいつは必ず馬鹿なオチをつけようとしているのだな、と勘づいておられるに違いない。その通り。

ご存知のように僕は猫馬鹿である。10年ほど前にここに引っ越してきた時から今まで僕が猫にどれほど尽くしてきたかはとても数値化はできないが涙ぐましいものである。Nに言わせると僕は「猫の父ちゃん」であり買い物に行けば大体自分の食料の総額より猫の餌代が上回っている。特にメスのモモちゃんは好き嫌いや気分の影響が大きく何とか気に入っていただこうと僕はあれこれいろんな餌を買ってきては与えている。その中でずっとコンスタントに与えればほぼ間違いなく喜んでいただけたのが「CIAOだしスープホタテ貝柱入り」というものだ。ホタテ貝柱なんてなかなか僕の食卓に乗ることはない。美味しそうでしょ。それは結構とろりとしていて中華料理でいえば魚料理や野菜料理なんかにかけてあるあんのようなものである。封を開けると確かにいい匂いがするし僕はそれをモモちゃんが満足げに食しているのを見ながら一度食べてやろうか、と何百回も思ってきた。でもしたことがなかった。なぜそんな簡単なことを一度もしなかったかと言えばやはりどこかに「これは猫様が食べるものである」という思い込みがありそれは一つの犯すべからぬルール、超えてはならない結界のように自分を律してきたからだ。僕のお粗末な自我が「それはダメ」と禁じてきた。でも何故ダメなのかを本気で考えると特に決定的な理由は思い当たらない。そこで食べてみたわけである。

まずパウチの口を開けて小皿に出してみた。ちょっと指につけて舐めてみたらちゃんと見た目通りのホタテの出汁の味がした。猫は腎臓病を患いやすいので塩分は控えてあるだろうと予測はしていたが意外とちゃんと味付けがしてあって「おー」と低く唸ってしまった。そのままさらに口をつけてゴクゴク飲み干してしまってもよかったがせっかくなら今日の晩御飯の主菜にしようと冷蔵庫にあるものをチェックしたら厚揚げとほうれん草があった。かくして僕の食卓に乗ったのが「厚揚げほうれん草のCIAOホタテあんかけ」である。僕がしたのは厚揚げとほうれん草を軽くゆがいてCIAOを温めてほぼそのままあんかけとしてかけただけだった。味がどうであったかというと不思議と僕がよく作る料理にとても似ていたのだ。知らなかったが僕と猫様はほぼ同じような味のものをこれまで食べてきたのかもしれない。ホント美味しかったよ。

さて明日はまたギャラリーに行ってみよう。岩根さんをいじめたくなってもグッと堪えて今までのおつきあいに感謝の気持ちを持ってみよう。そういえば最近Kもいじめてないなあ。やはり若いお客さんがいるとこちらもあまりはしたない会話は自重してしまう。若いっていいね!

矢野エッセイ
その67「ウメボケ物語」
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その78「笑い話」