前回高知に行ったついでに高知競馬場ででたらめに買った馬券が当たった話を書いたが今回はその続き。
僕はグロスカウンターでいつものアイスコーヒーを飲みながら僕が行った日の競馬新聞をひろげてグロスマスターKの顔色を楽しんでいる。
実は僕もKも結構昔からの競馬ファンだが地方競馬の予想紙というものを初めて見た。今、日本で一番有名な馬は、ということになればそれはダービー馬でも天皇賞馬でもなく間違いなくハルウララだろう。だが中央競馬とウララちゃんが走っている地方競馬とでは何もかもが違う。僕はその違いはせいぜいアメリカ野球のメジャーリーグとマイナーリーグ、相撲の幕内と十両の違いぐらいに思っていた。だがあらためてその高知競馬の予想紙を隅から隅まで読んでみて僕もKも驚いた。ちょっと感動して、かなり悲しくなった。
たとえば僕が買った第六レースの一着賞金は10万円。それを馬主やら厩舎やら騎手やらが分けるのだよ。二着で5万円三着で2万5千円四着で8千円五着で4千円……。どんな商売にでも経費というものがある。それを差し引いて人は生活を成り立たせているんじゃないの? 僕とKとはかわりばんこに新聞を読み、新たな学習をしてはかわりばんこに首を振りながら溜息をついた。ちなみに中央競馬の少し大きなレースだったら一着賞金は2千万円以上である。
「大変だよ。」
「大変だよなぁ……」
小説の技法のすべては競馬新聞にかいてある、と看破したのはかのヘミングウェイだけれど、僕はそれは事実であるな、と深く納得した。血統、過去のレース成績、馬体重の増減、それら頼りないデータを都合のいいように解釈、分析しながら我々は自分のレースをでっち上げ、夢想し、えいやっ!と馬券を買う。そんな我々の夢をより複雑怪奇なものにするデータの中に「追い切り」というものがある。それはレース前日、前々日にどんなトレーニングをしたか、ということだけど、一杯、強め、軽め、馬なり、など独特の専門用語が使われ、例えば一杯とあったら、体重が重すぎるのを思い切り走らせてダイエットしたんやろか、あるいはやる気満々なのかいな、とかね。
ところがその日出走した全103頭の中で一杯に追い切ったのは一頭だけ。あとの102頭はすべて馬なりか軽め。この奇怪な事実を僕とKとは額を寄せ合って次のように理解した。
つまり馬はみんなお疲れなのだ。一杯に追い切るだけの体力の余力なんて無く、レースそのものがトレーニングを兼ねているに違いない。それほど馬は膨大な数のレースを走らされている。普通中央競馬では多くても年に十レース、二歳から走り始めて六歳か七歳ぐらいで引退するのが普通なのだが高知競馬では十歳以上の高齢馬がいくらでもいる。その日の最高齢は十三歳! たぶん人間でいえば八十歳近いはずだ。なんだかぐっと身につまされるではないか。
老後とか、年金とか、余生とか、そんな心温まる言葉から遠く遠く離れて、自分の歳もわからなくなるまで働き抜く姿。
僕とKとはともにあらぬ方をそれぞれ見つめながら深くて重い溜息をそっとついた。
ヘミングウェイ、パパと呼ばれたかの文豪がこの新聞を読んだらいったいどんな小説を書くんだろう……
「老人と馬」か。