2008年最後の個展が終わった。
そういう時期を見計らってグロスマスターKは「そろそろエッセイの方を……」と、いつものセリフを嘆願とも脅迫ともつかぬ滋味深い目つきでのたまう。
だからこのグロスカウンターの内容は自然と個展期間中に起きたこと、出会った人々のエピソードが多くなる。今回も色んな経験をして嬉しかったこと、有り難かったこと、しみじみしたこと、あれこれあったのだがそれはもう少し寝かせて発酵を待つことにしたい。
さて、一息ついた時の僕の楽しみは本を読むことだ。今も二冊の本を読んでいる。C. Daly Kingの「海のオベリスト」という小説と開高健の「知的経験のすすめ」というエッセイだ。少しまとめて時間がある時は小説、細切れの時間にはエッセイを読むことにしている。
「海のオベリスト」は1930年代あたりの豪華客船上で起きた殺人事件をたまたま乗り合わせた四人の心理学者がそれぞれの学派の理論を駆使して犯人探しをする話。著者も実は心理学者だったのだがこの本は当時(1930年代)の心理学の様子を紹介しつつ、結局のところ幾分この学問を揶揄しているようにも読める。
このグロスカウンターにもかつて書いたことがあると思うが僕は岡山大学の心理学科卒業だ。だが実際は心理学を少しだけ囓った、あるいはちょっと歯形をつけた、もしくは舐めた、正確に言うなら近くを通りがかった、に過ぎない。何の言い訳にもならないが当時多くの学生がそんなもんだったんだわ。でも僕はその中でも際だって勉強しなかった。入学して二ヶ月も経たない内に僕はまったく心理学に興味を失ってしまった。高校では言うまでもなく心理学なんてものを勉強しないのだから何故高校生が心理学を志すかと言えば、極々少数の者を除いて何かを「勘違い」するからだ。
心理学を学べば多くの謎、つまり自分を含めてもっとも謎に満ちた人の心という魔界の秘密が解けるのではないか、と思いこんで幼稚で切実な夢を目一杯膨らませて入学する。待ち受けているのはそういう子供っぽいロマンなんぞ一刻も早く消毒して「科学」としての心理学というものを自覚させようとしている教師である。素直で柔らかい心を持った若者の場合は「科学」という言葉に新たな誇りを持ち直し、あっという間にアカデミズムに自ら進んで洗脳される。要するに僕はそうではなかった、ということだ。
「なあんだ、科学やったんかぁ……」とブツブツ呟きつつ僕は美術と音楽への遠い道のりをトボトボ歩み始めたのでした。そういう恥ずかしい心理学経験を持っている僕としては「海のオベリスト」は敵討ちをしてもらったようで楽しく読める。ネタばらしは慎まないといけないが、この小説には「行動主義心理学者」、「精神分析医」、「総合心理学者」、それに中立的立場(どこにもこういう人いるよね)の心理学者がそれぞれの学問的立場から実に理路整然と推理を積み重ねて犯人を言い当てていくのだが次々とはずれるのである。
僕としては溜飲が下がるのである。誠に情けない喜びだけど、いわば新規上場株を買い損ねた運の悪い男が暴落を喜ぶようなものか。ちょっと違うか。まあいい。とにかく僕は今でも心理学というやつを信じていない。どんなに精緻な理論に見えても、魅惑的な用語を駆使していても、とどのつまり砂上のものである、と思っている。砂の上に建てられたならばこその魅力もあるのだがそれを科学と言い張ることに僕は根本的な無理を感じる。流れている血の主流は「文学」なのではないかと思っている。
本来役に立たないものであり、それならばそれで大いに楽しめるのだが、役に立つ科学の枠組みを譲らない限り僕は心理学と和解できそうにない。もちろん心理学の立場からすれば片腹痛いことであろうし、僕としても何やら申し訳ない気もする。通りすがりの馬鹿者に唾を吐きかけられたような不快感をお持ちであろう。ゴメンネ。もっと正直に言うと僕は心理学に限らず多くの学問に同じような嘘臭さを覚えている。いや、学問ではない、もっとピントを絞り込み、その正体を表現するなら「教育」というべきなのかもしれない。
今読んでいるもう一冊の開高健の「知的経験のすすめ」は「汝の一生をふりかえり、教育なるものの意義をその経験よりして考えよ」という編集者から与えられた命題に開高健が渋々答えて書いた著者55歳、亡くなる二三年前のエッセイである。その中に度々言い回しを変えて繰り返され、僕もずっと感じてきたのは、どんな面白いことでも学校で教えられた途端に退屈なモノになる、ということだ。退屈をねじり伏せる大いなる野心、あるいは群れから疎外される恐れを知っている者は面白くなくても教師の言うことを聞く。聞かない者は僕のようになる。ゾーッとするやろ。
Kさんという僕より数歳上の知人がいる。彼はとても音楽が好きでクラッシックもジャズもかなり詳しく、高校時代にはブラスバンドでトロンボーンを吹いていた。彼とはよく古い音楽の話をするのだが彼が口癖のように言うには、中学、高校と何故か彼の学校では音楽鑑賞の時間がなかった、それは本当に有り難かった、そのお陰で音楽が本当に好きになったというのだ。逆に音楽や美術の学校教育のせいで音楽嫌い、美術嫌いになった人達が僕の知人には多い。
教育に携わる方々には山ほど言い分がおありであろうがここはグッとこらえてこの事例を受け入れていただきたい。なんとか音楽の興奮、美術の素晴らしさ、文学の面白さ、数学の美しさ、歴史の奥深さなどを教えようとご苦心されているのはわかる。だが、それらが「教育」という形をとった瞬間に子供には圧力でしかなくなるのは何故か。教育素材を開発し、授業内容を練り上げ、一分の隙もない見事な授業をしてもそれが教育である限り子供が口に入れられるのは目黒のサンマではなく油も旨味も小骨も抜かれた城中のサンマでしかないのは何故か。面白くしようとすればするほどむしろ子供の本心が寒々しく離れていくのは何故か。
実は僕も短大の非常勤講師として二十年以上ガラス工芸を教えている。今年も一年の授業が残り少なくなってきた。この時期になると正直やっと終わることにホッとしている。それは決して学生が嫌いなのではない。自分のやっていることをどうしても肯定できないのだ。何かを、具体的に言うなら、物を作ること、手を使うこと、頭と手が同時に動く時のドキドキする感じを伝えようとしているのだが、それが今年も出来なかったこと、その罪の重さ、根本が間違っている感じが嫌なのだ。方法が間違っているのではないかと毎年思い、毎年あれこれいじり回すのだがどれも芯に当たらない。二十回以上も空振りを繰り返せばスイングが悪いのではなくバット、もしくはボールの存在を疑わざるを得ない。
僕の心理学失敗談からはずれにはずれてここまで来たが、まあいつものこと、ごめんなさい。僕の教育嫌いはどうしようもないのだが実は学校は結構好きなのだ。特に大学という所は何をしてもいいのならずっと居たいぐらい好きだ。漠然とではあるが「理想の大学」というイメージもある。
それを敢えて言うなら一番近いのは他ならぬグロスなのかも知れない。数日前、グロスに僕を含めて四人のお客さんがいた。別々のテーブルにいたお二人が相次いで帰られた後、カウンターに岡山大学文学部の名誉教授Oさんと僕が残った。Kは「アカデミックでしたねえ」と満足そうに呟いた。帰ったお二人は弁護士さんとお医者さん、それに大学名誉教授なら確かにアカデミックと言ってよいだろう。そういう方々は皆物静かでだいたいカウンターの僕が一人下らないことをしゃべり散らしているのだが、質問すると気持ちよく丁寧に答えて下さる。そういう市井の名教師達がこのグロスにはもったいないほど揃っている。
法律、文学、美術、経済、コンピューター、写真、医学、知りたいこと学びたいことを面白く手に入れたいならあなたもグロス大学に入学するがよろしい。入学金免除、授業料は一こま400円(香しいコーヒーつき)授業時間無制限、運悪く教師不在の際はなんと学長のグロスマスターKが直々に講座を開講しております。どんな質問にも虚ろな目つきで必ず答えて下さるよ。絶対に「知らない」とは言わない。ゾーッとするやろ。