ようやく冬が終わり木々に花が咲き始めた頃だった。
「よお、あんたの所に誰か引っ越して来たそうやないか」
「そうよ、この前トラックがたくさん荷物運んできた」
「ふーん、どんなやつや?」
「いい人みたいだけど」
「なに呑気なこと言うてんねん、きょうびこんなへんぴなとこで暮らそうちゅうようなやつがいい人であるかい」
「だってえさくれた」
「わっ!食うたんか?」
「食べた」
「あんたぁ、ムチャしよんなぁ。知らんで。毒やで毒!毒入りに決まってるやんかぁ。あーあ、あんたとも今生のお別れかぁ・・」
「美味しかったよ」
「人懐っこいんもたいがいにせんとなぁ・・・死んだ親父がようゆうとった。『うまいもんには毒がある』ちゅうてな」
「食べてみないとうまいかどうかわからないじゃない」
「だからやなぁ、食うてみてうまかったら毒やねん、うまい思った時は手遅れやねん」
「今日もえさもらいに行こうかな。あんたも行く?」
「アホか!オレを誰や思うてんねん、オレはあんたみたいな隙だらけの生き方はせえへんのじゃ!オレはわきが固いんじゃ!死んだおやじがよう言うとった。『転ばぬ先に食え』ちゅうてなぁ・・」
「お父さん、いろんなこと言ってたのね。そろそろ行ってみようかな」
「オイ待て。一人は危ない。オレも行く」
「食べたいんだ」
「ちゃうわ!これはほれ、ボディーガードやんけ。オレの顔は恐いちゅうてあんた前に言うてたやんか。なんでも最初が肝心や。なめられんようにオレが一発かましたる」
「わかったからあんまり恥ずかしいことしないでね」
「あったりまえやんけ、死んだ親父がよう言うとった『アホは寝て待て』ちゅうてなぁ・・・」
僕がここ玉野市後閑に引っ越してきたのは3月23日だった。とりあえずのリフォームを終え、なんとか人間らしい暮らしと仕事ができる状態にはなっていたがその23日の夜過酷な労働ですっかり無口になった引っ越し屋の二人の若者が帰った後も僕は深夜まで段ボール箱を仕事関係は一階、日常生活関係は二階に振り分けたりしていた。もう身体のどこにも一滴の燃料もなくなって冬の案山子のようになった身体を初めて一杯に湯を張った真新しいバスタブに沈めた。
それから数日間も僕は朝から寝る直前まで家の中で動き続けた。夜になると冷えきって血の巡りの停止しかけた身体をバスタブのお湯で解凍し、「シヌーッ」とか「イキカエルー」とか大声でうめきながらバスルームの湯気に煙った白い天井をぼんやり30分も眺めていた。
引っ越してから数日目、二階の広縁のガラスの向こうに何やら毛の固まりのようなものが丸まっているのを見つけた。ガラス戸を開けてみるとその固まりがほどけ、顔がこちらを向いた。眼の周りが怪傑ゾロのマスクみたいで他は白っぽい。タヌキかアライグマかと思ったが僕の顔を見ると「ニャー」と鳴いたので猫なんだろう。
この家は道路際から二十数段の石段を登ったところに玄関があり、その横に縁側に面したデッキみたいなのがある。そのデッキの端っこにこの猫らしき動物は寝ていたのだった。
僕は片付けを中断し、車を出してスーパーに猫の餌を買いに行った。戻ってきてみるとそれはいなくなっていたがとりあえずその辺りにえさを撒いておいた。夜になって見てみるとその餌はなくなっていた。次の日も同じように餌がなくなっていたので他の動物、あるいはからすが食べたのでない限りあの猫は僕が餌をくれる人だとわかってくれたのかな、と思うとなにやらほのぼのと嬉しかった。
僕は引っ越し荷物の中から僕が焼いた白い茶碗を見つけ、それに餌を入れてやった。
それからまた数日経ってそのタヌキ顔の猫がもう一匹のキジ猫を連れてきた。ちょっと強面のキジ猫はどう見てもオスに見えたがどう見てもメスのタヌキ顔猫の陰に隠れるようにして近づいてきたが僕を見ると「シャーッ!」と吠えてすぐにまたメス猫の後ろに引っ込んだ。僕はもう一つトルコブルーの平茶碗を持ってきて二つの茶碗にそれぞれ餌を入れてやった。キジ猫はもう一度「シャーッ!」と怖い顔をして歯を剥いたがそーっと近づいて来て餌をむさぼりはじめた。二匹の猫がとりあえず並んで餌を食んでいる姿はなかなか素敵だった。縁側からガラス越しに見ているとメス猫の方は半分ほど食べるともう満足したのか石段を一段下りたあたりで庭を見ながら毛繕いをしている。オス猫の方は素晴らしい勢いで自分の分を完食した後チラチラ僕とメス猫を交互に見た後メス猫の残りにとりかかった。
「かつお味やったな」
「あんた、私の分も食べたでしょ」
「ま、残したら仁義にもとるさかいな」
「エサくれるんだからあんな変な声出さなきゃいいのに」
「ま、いちおーな。なめられたらあかんし。挨拶みたいなもんや」
「変わってるね」
あれから四ヶ月経った。
Nの命名でメスは「ウメ」、オスは「ボケ」と呼ぶようになった。庭にある木の名前からとったのだがボケはそのいわれなど忘れてしまうほどまったくボケた猫であることがわかってきた。
今でも僕が餌をやろうとデッキに降りて行くと「シャーッ!」と歯をむく。先日は餌の袋を持った手に強烈な猫パンチをくらって餌をこぼしてしまった。いったい何故そんなことをするのかどうしても理解できない。 ウメはよく観察してみるとしっぽが後で適当なのを取り付けたみたいにひょろひょろだし耳の先が左右とも割れている。僕は未だにウメが本当に純粋な猫なのか疑っている。それにかなり高齢みたいで一日の大半をデッキのどこかで寝ている。最近は暑いので下にある倉庫の入口のセメントのたたきの上で寝ていることも多い。そこまで降りる時もちゃんと石段を一段一段ひょこひょこと降り、ちゃんと庭の飛び石の上を歩いて行く。だがボケはそういう正規のルートは通らない。とにかくわざと何が潜んでいるかわからないような草の深い所にずんずん分け入って行く。この家の周りは道路側を除いた三方が鬱蒼として緑深い(深過ぎる)荒れ放題の山の斜面なのだがボケはよくそのワイルドな原初の森からひょっこり姿を現す。何が目的なのか僕には想像もつかないがなにかしらボケにはボケの止むに止まれぬものがあるのだろう。
そんなやっかいな事情をかかえたボケをウメはずっといつでも待っているようなのだ。今まで何度かボケが二三日帰ってこないことがあったがそんな時ウメはずっとデッキの横板の隙間から顔を出して下を見ていた。それは僕には荒れた海に漁に出た男を港で待つ女、もしくは家出した放蕩息子をあてどなく待ち続ける母、のように見えるのだ。
ある時デッキで二匹が仲良くのんびりとひなたぼっこをしていた。だが突然なんの理由も前触れもなくウメがボケに数発の猫パンチを見舞った。ボケは驚いて目をパチパチし、そそくさと逃げて行った。ウメにもなにかしら止むに止まれぬものがあるみたいだった。
ウメは最近は喉の辺りをなでてやるとゴロゴロと気持ち良さそうにしている。持ち上げてみると驚くほど軽い。
ボケはたぶん一生触らせてくれないだろう。この前右手にくらった猫パンチの肉球の感触を思い出す。あれが僕とボケの最初で最後の接触だったのだろう。
だが僕はボケが可愛くてならない。あのなんだかピントのはずれた必死な感じが他人のように思えないのだ。