これは一人の愚かで無力な男の悲惨な戦いの記録である。

もちろん全て実話である。

一日目 春とは言ってもまだ朝は肌寒い。いつものように猫達の「ミャー、ミャー」という空腹を訴える切実な鳴き声に目が覚めて僕は縁側に置いている猫の餌いわゆるカリカリの袋を持ちテラスに降りた。ところが猫はいるのだが餌皿がない。三枚の皿がすべて無くなっているのだ。まだまったく始動を始めない頭で思いつくのは「?」のみである。とりあえず四匹の子猫の脅迫めいた合唱を止めて頂くには餌をやるしかないのだから僕は代わりの皿を探して餌をやった。

自分の朝食の支度をしながら僕は幾つかの仮説を立て、検証してみることにした。

仮説1 猫がいたずらで皿を下に落とした = 一応テラスの下を見てみたのだが見当たらない。

仮説2 僕のフアンが持って行った = ファンタジーにすぎない。

仮説3 カラスがくわえて持ち去った = そこそこの重さのある焼き物である。結構深さも口径もあるしちょっと難しい。

仮説4 猿 あるかもなぁ・・・あいつなら手が使えるし充分実力あるよなぁ・・・

二日目 起きてすぐにテラスを見てみた。やはり昨日置いたスペアの餌皿が無くなっていた。もともと餌皿に使っていたのは僕が焼いた焼物が二点。それと卒業した学生が教室に放置して行った同じようなサイズの器が一点であった。昨日ありあわせに置いていたのは先日富山で個展をした時にお客さんがくれたお菓子の入れ物の缶であった。それもやはり姿を消していた。僕は虚しく頭を振りながら今日もやはり空き缶に餌をいれて猫達の要求に応えた。一心地つき僕は車で買い物に出たがすぐに忘れ物に気がついて引き返した。僕の家のガレージはちょっと幅が狭いので今の車を入れるのは結構難しい。だから僕は道を挟んだところにある二十坪ほどの空き地に車を停めて忘れ物を取りに行き、車のところに戻った。その時車の前方2メートルほどの所の草むらに何かがあった。それは昨日無くなった僕が焼いた器2点であった。二つが50センチほどの間隔で置いてある。ちょうどいつもの状態で置いた皿がそのまま30メートルほどきれいに移動したかのようであった。『訳がわからん・・』

僕はとりあえずその二つを持って家に戻り、買い物にもう一度出かけた。買い物の帰りにグロスに寄った。

「それ、絶対猿ですよ。猿出ましたかぁ」

グロスマスターKは思わず洗い物の手をぴたりと止めて深く頷いている。先ほどまでの見るからに面倒臭そうな虚ろな目つきは消え、少女漫画のようにキラキラ輝いている。このご仁との付き合いも早20年を越えたがこういうところはいまだに謎多き人物である。

「まあ、見たわけでもないしとにかくわからんのだわ。猿にしてもなんであんなにきちんと揃えて置いて行くのか、第一なんの為にそんなことをするのか、誰でもいいから教えて欲しいよ」

三日目 Nにもこの話をした。彼女はちょっと類を見ないぐらいに怖がりで、以前我が家の庭に猿が出たときもこっちが腰が引けるぐらい怖がっていたのに今回は「お猿見たい」と言う。もっとも現場を見たいわけではなく撮影した映像を見たいようだ。それならまあ怖くはないわな。ちなみに皿の移動は今日も続いている。それをテラスに置き直す僕のリターンも同じく。

四日目 ほぼ前日通り。皿の位置まで同じ。

五日目 やはり同じく。ちなみに最初に消えた三枚のうち、ここのところ道を挟んだ空き地と我が家を行ったり来たりしているのは二枚だけである。一枚は消えたきりなのだ。それは学生が作ったへなちょこのいびつな皿である。Kに言わすと「それが一番気に入ったんじゃないですか」だそうな。ちょっと傷つく。

六日目 今日も同じ。最近は車で帰ってくると先ず空き地に確認に行くようになった。そこにいつものようにいつもの場所に皿があるとなんだかおかしくて微笑んでしまう。想像するのは両手に皿を用心深く乗せて車に気をつけながら道路を渡る二足歩行の猿の姿である。

七日目 ちょっと様子が変わってきた。昨日までは僕が寝た後、もしくは出かけた時にしか皿移動は行われなかったのに、今日は僕が一階で仕事をしている間に移動していた。これは敵が僕を見切ったのか、あるいは隙を見せたのか。この日も僕は買い物に出かけ、帰りにグロスに寄った。いつものようにろくでもない話をずるずるしていたらそこに常連客のマダムMさんが来られた。すかさずKがチクる。

「矢野さんち、大変なんですよ。また猿が出たらしいですよ」

そこで僕はMさんに今までのいきさつをざっとご説明したらMさんも少女漫画になって「わー、面白い。見たい見たい!」とおっしゃる。やれやれ。

帰宅してルーティーンになった空き地から皿を回収する仕事を終え、僕は一階で仕事をしていた。夕暮れて疲れ果て、二階に上がって夕食の支度をしていた時のことである。なにやらバサバサッという不穏な音が聞こえた。僕は急いでテラスを見ると先ほど回収してきた皿が無い。僕は寝室を横切り階段踊り場の窓のところに急いだ。そこからしか向かいの空き地が見えないからだ。そこに見えたのは僕の焼いた水色の直径15センチほどの焼物とそのそばにいたカラスであった。英語で言うところのガンスモーク、まさに今ピストルが発射された動かぬ証拠の煙、ついに僕はそれを見たのだ。

『カラスやったんかぁ・・・』

とにかく90%の確率で犯人はわかった。猿ではなくカラスであったのが驚きでもあり何故かちょっと残念でもある。それは僕が勝手に思い描いていた猿の道路横断イメージがなかなか良かったものだからそうでなかったのが残念、ということだ。だが実害を考えれば猿であった場合の方がこの後より深手を負う可能性がある。彼らは何と言っても手を使うのでテラスの戸を開けて中に入ってきてわやをするやもしれぬ。カラスはそこまで破壊的なことはしないだろう。まあ、よかったんじゃないかな。こうなったらカラスと僕との根比べである。カラスが飽きるまでお付き合いしてみるか。

八日目 もうすっかり正体を現すことにためらいがなくなったのかカラスは僕がいても平気で一日に何度か皿移動をするようになった。猫のことを考えればやはり皿なしでは困るので何度も空き地に行って取り戻してくる。これはゲームが過熱してきたのか、あるいは何か次の段階への前触れなのか。

夜になり雨風が強くなった。春の嵐。こういう時カラスはどこでどう過ごしているのかな。山の中に安全なホームがあるのかな。

九日目 昨夜の嵐がおさまり猫達は朝から元気に朝食の催促の合唱をあたりに響かせている。同じ時に生まれた四匹だが微妙に声の高い低いがあって同時に鳴くと美しいハーモニーを形成する。僕はテラスに皿が無いのを確認して踊り場の窓から空き地を見た。そこにはいつものように定位置に皿が二枚あったのだがいつもと違う光景だった。昨夜の大雨に洗われた青々とした草の中にいくつもの見たことのない他の物が点々と置かれていたのだ。それらは僕の皿よりまだ大きな皿が数枚、植木鉢が数個、他にもなんだか正体の解りかねる物体などがその空き地の全体に配置され、その見慣れた空き地があたかもモダンアートのインスタレーションのごとくに変貌していた。その絶妙な間隔、バランスはとても適当にやったようには見えず、僕は思わず「ほほー・・・」と腕組みをして唸ってしまった。ここまでの僕とのゲームに飽きてついにカラス先生は過激なアーティストになられたのであろう。その作品にケチをつけるようで気がひけたのだがとにかく猫に餌をやらねばならない。僕はできるだけ他の物に触らぬようにして皿を取り返した。その日も何度か皿は我が家と空き地を往復したのだが気のせいかその度に空き地インスタレーションは表情を変えていたような気がする。僕はもうカラスの遊び相手ではなく鑑賞者に成り下がった。

十日目 朝起きていつものごとく皿の不在を確認する。もちろん若干のため息はつくのだがここのところの新局面によって未知の展開への期待もある。そんなかすかなワクワクを忍ばせて踊り場の窓のところへ行ってみる。すると昨日あったカラス先生の作品がきれいさっぱり姿を消していた。何がおきたのか。もしや無粋な市の職員がやってきて掃除をしたとか。いやいやそれなら人の気配がしたはずであるがそんなものは昨夜から今朝までなかった。どうも作家自らが撤去したようである。一晩眺めてみて不満がつのったんだろうか。まあそれはいいのだが困ったのは猫の餌皿も無いことである。少し範囲を広げて捜索してみたがどこにも見当たらない。これは確かに新しい展開であるが昨日までの空騒ぎ的な陽性の展開と異なり何やら不穏な気配である。ちょっと背筋がぞっとして僕は家に引き返しテラスからあたりをぐるりと見回してみた。僕は本来探し物がへたくそである。しかも整理整頓がもっと下手なので人生のかなりをモノを探すことで浪費している。探せば探すほど見つからないというのは妙な言い回しであるがそれが僕の実感である。そういう時にはむしろ探さずにぼんやり景色として見渡してみると探していた物が見える、ということもままある。そこで僕は「これは餌皿を探しているのではないのだよ、この風景をパノラマ的に楽しんでいるのだよ」と自分に言い聞かせ視線をゆっくり左右に移動させた。そうすると何やら今動いている視覚のどこかにちょっとした違和感のようなものがあった。それはあるべきものがないのか、ないはずのものがあるのか・・・。もう一度更にゆっくり視線を動かしてみるとそれがあった。

僕の家にはガレージの上に倉庫がある。だから道路から見たら二階に倉庫があるように見えるが家の二階からは目線から少し下に倉庫の屋根が見える。そこに皿があったのだ。しかも三枚。初日に姿を消した学生のへなちょこ皿までそこに乗っていた。これはまったく予想のできない展開である。僕はもう皿を取り返すことができなくなったのだ。よほど長いはしごでも架ければ倉庫の屋根に登れないこともないだろうが僕は実は高いところがまったくだめなのである。僕は今日も腕組みをして「ウーン・・・」と唸った。次はどういう手を打ってくるのかという期待はもう持てなくなった。ようするに「詰んだ」のだ。敗北である。

もしも輪廻転生とかいうものがあるとして次は何になりたいと聞かれたら僕は猫と答えていた。だが今回の経験をしてカラスもいいな、と思う。

へそ曲がりだけが取り柄のいけ好かないアーティストだとか脳みその中に訳が解らない思想をアルコール漬けにしてぼんやり生きている喫茶店主だとかをこちらの作ったルールのゲームに引きずり込んでいたぶってやるのも面白い。スマートフォンの中に世界のすべてがあると思い込んでいるやわな若者の頭に上空からフンを落としてやるのもいいかもしれない。世界はもっともっと広く、そう簡単に理解など出来るものではないのだ。上空からの警告であり世直しである。

20年ほど前盛岡の第一画廊という画廊の上田さんという紳士がそば屋に連れて行ってくれた。そこの座敷には床があって難波田龍起の軸装された抽象画と柳原義達のカラスのブロンズ像が取り合わせてあってそのセンスの良さに感心したことがある。柳原義達ももしかしたらカラスにいたぶられた経験があったのかも。

とにかくこの十日間の戦いは終わり僕は見事に敗れた。もちろんその後も世界は続いているし倉庫の屋根には皿が増え続けている。それとは関係なく猫は今日も腹を空かせ僕はあくせく仕事をしているしKはせっせと珈琲豆を焙煎し、珈琲粉に湯を注いでいる。カラスはそれらを上空から全て見ている。そうに違いない。