「なんか面白い話ない?」 岡山天満屋ギャラリーの二つ並んだ一人がけソファーの一つに座ってMさんが顔だけこちらを向けて僕に言った。もう顔は面白そうである。
Mさんのことは以前書いた。コアガラスと言う古代ガラスの作家であり、ガラス関係者なら誰でも知っている。長身痩躯、髪を後ろでくくり顔は没落した貴族の如く憂いと品格と退屈を漂わせている。
今日は年に一度のチェネト会の展覧会三日目、僕の当番日にMさんが遊びに来てくれた。
チェネト会というのは羽原明徳さんという古代ガラスのコレクターが好きな作家やら学者を呼んで時々ご飯を食べたり話をしたりする集まりとして始まったのだが羽原さんが亡くなった20年ほど前からは成羽美術館館長の澤原さんがまとめ役として今も何となく継続している。
会と言ってもちゃんとした会則があるわけでもないしもちろんNPOやNGOでも財団でもない。だから僕も会に所属しているという実感はまるでない。
3時になったので澤原さんが「ちょっとお茶でも飲みにいきましょうや」と提案してもちろん僕は一も二もなく賛成した。お茶とか休憩とか大好きなのだ。
たまたまその場にいた僕、Mさん、羽原さんのお嬢さんでありそのコレクション活動を引き継がれたK子さん、羽原さんの秘書だったMさんの五人はギャラリー隣のカフェに移動し、それぞれ飲み物を注文した。
振り返ってよくよく考えてみれば僕はこの顔ぶれの全ての人に大きな借りがある。特にK子さんには父上の代から二代に渡ってお世話になってきた。無利子でもとうてい返済できそうもない大きな借りである。それらをいちいち具体的に書き連ねてみると日頃きれいさっぱり忘れきっている自分の恩知らずぶりがさすがに恥ずかしいのでここはやはり本当に忘れておくことにしよう。
最近Nに教えてもらってユーチューブで何本か見たNHKBSの「京都人の密かな愉しみ」というドラマがある。その中でなるほど京都人というのはやはり洗練されているなあと感じたのは「かんにんどす」という言葉の意味の複雑さ、ニュアンスのデリケートさである。それは単に許しを請うだけではない。もちろん僕は京都人ではないのでそれを正確に使うことも言い表すことも出来ないがここはあえて目の前の四人の恩人に対して心の中で「かんにんどす」とだけ呟いておこうか。
澤原さんが近々計画している美術館のとっておきの企画の話だとか僕とK子さんの共通の一大事である猫の話だとかの後、MさんとK子さんとが東京在住のある二人の紳士の間にあった最近のエピソードを話し始めた。
そのお二人はある業界で代表的な存在のお二人で作家ではないが僕やMさんの制作にも深い関わりがある分野の話であるから僕は興味深く聞いていた。
そのお二人は多分どちらも70代でライバルとして友人として長く並び立ってきた。もちろん小さな世界だから僕も昔からお名前はよくいろんな人から聞いていたしMさんK子さんはどちらの紳士とも深いお付き合いをされてきた。
しかしある一つの大きな取引を片方が独占したことによって二人の間には大きな、修復不可能なヒビが入り、関係は断絶した。
個性の強い男二人が喧嘩をしてしまうとよほどの大きなきっかけが絶妙の塩梅で訪れない限り回復はない。
だがそのきっかけが片方の癌という不幸でもたらされた。
東京という大消費都市では医療さえもコスト相応である。その医療費をもう片方の方が全部拠出されたというのがそのエピソードのあらましである。
もちろんそれによって長い間のわだかまりがすべて氷解したのか、その話のすべてがもれない事実であるのかは知りようがないのだが人間というものを考える時に一つの救いのある話ではある。
「仲直りっていいよね」
僕はMさんに言った。
これから先はMさんと僕との間で実際には交わされなかった僕のフィクションの会話である。
「仲直りしようよ」
「どうやって?」
「それにはまず喧嘩しないと」
「それは難しいですなあ」
「だよね。喧嘩するにはそれ相応の確固たる信念の衝突とか」
「ないない」
「明白な抜き差しならぬ利害関係とか」
「あれへんあれへん」
「そうかあ、喧嘩も出来ないぐらいズルズルかあ」
「だから仲直りもできないと」
「そういうことかあ……」
Mさんがやってきたコアガラス、僕がかつて専門にしていたモザイクガラスはともに紀元前のエジプト、メソポタミアでもちいられた古代ガラスの技法である。それらは約2000年前の吹きガラスの発明によって一旦歴史のステージから姿を消した。その消えた文化、敗れた技法を何故今誰に頼まれたわけでもないのにねちねちとやり続けているかという問いにMさんはかつてこう答えた。
「途切れた歴史をもし途切れていなかったら、という仮説の基に自分で書き続けていくということ」
僕は歴史的な想像力というものが方向感覚と同じぐらい致命的に欠如しているので僕の制作感覚というものはMさんのそれとはかなり違うがMさんの言葉はとてもよく理解できた。
現在世界を代表する小説家で詩人のポール・オースターの奥さんでやはり小説家のシリ・ハストヴェットの言葉にこんなのがある。
「小説を書くということは、今まで一度も起きなかったことを思い出すということ」
これは現実的な理解を当てはめれば明確に矛盾した思想でありいくら読み込んでも一銭(一文?)の得にもならないことであるがその矛盾、ねじれ、ねじれによって生じる隙間、そこにしか面白い物語は生まれない、とも言えそうである。
起きなかった歴史、生まれなかった生命、果たされなかった約束、届かなかったラブレター、実らなかった努力、出なかった涙、当たらなかった馬券……
それらはそれだけで優れた物語であり僕達が静かに深く沈んでいける海はそこにある。
久しぶりにこのエッセイを書こうかなと思ったのは昨夜ギックリ腰になって仕事ができなくなったからだ。明日はチェネト会の搬出なんだが大丈夫かなあ。
椅子にそーっと腰掛け殻付きピーナッツをぽりぽり食べてグロスで買ってきた珈琲を小さな魔法瓶に入れて飲みながら静かな一日が暮れていく。
ぎっくり腰が治ったらグロスに行ってグロスマスターKに聞いてみよう。
「ねえ、仲直りしない?」