今は2021年冬。ものすごく寒い数日と普通に寒い数日が繰り返されてこの後またものすごく寒い数日が始まるらしい。

去年2020年に一度もこのグロスカウンターを書かなかったから「あーあ、矢野もとうとう死んじまったかな……」としみじみ美味しいお酒を飲んでいる方もおられそうなので一応まだ息はあるんだぞということはお知らせしておこうと思ったわけです。

言うまでもなく去年はひどい年だった。この後もしかしたらもっととんでもないところに世界が転がり落ちて行くかもしれないがその場合はとんでもないことの始まりの年ということになるのだろう。

僕の生活は元々人様と関わることが少ないのでコロナ禍の世界でもそれほど変化はなかったがもちろん影響は受けている。例年平均して5~6回の個展が4回になった。そのうち東京と金沢の個展には行くことが出来ず作品だけ送ってギャラリーにお任せしてしまったし年末の神戸の個展もいつもなら一泊して二日目まで在廊していたのだが今年は日帰りにさせてもらった。まあその程度の影響で済んだのはましなほうだったんだろう。だがコロナと関係ないところでも昨年は僕にとってあまり良い年ではなかった。

僕や僕が大事に思っている方の周りで何人かの人が亡くなった。僕の母も8月に89年の生涯を終えた。

人がこの世からいなくなるということを心で、あるいは肌でしっかりと理解するということはなかなか難しい。亡骸をこの目で見て火葬場で煙になり残った僅かな骨を箸でつまんで骨壺に落とすカツンという乾いた音を聞いても死そのものはどこかに隠れていて姿を現してはくれない。むしろそのような身近な死よりもいろんなメディアからの訃報を聞いて思いがけぬほどの喪失感を覚えることがある。

昨年10月17日トランぺッターの近藤等則としのりが71歳で亡くなった。訃報の記事ではジャズトランぺッターと紹介されていたがその枠に収めるにはあまりにフリーな音楽家だった。

最近友達と話をしていてよく現代美術の話題になる。僕の友達は陶芸家やガラス工芸家など工芸の仕事をしている人が多いのでどちらかといえば現代美術に対して批判的な意見を聞くことが多い。「あんなウンコみたいなもの」などと厳しいことを言う人もいて僕としては「実は僕は結構現代美術も好きなんですけど…」と言い出せなかったりする。正確には僕は現代美術の1%ぐらいが好きで多くのものはやはり辟易とするのだがどうしてもその1%への思いが「あんなウンコみたいなもの」という意見に同調することを戸惑わせてへらへら笑って誤摩化すという情けないことになる。

それと同じく現代音楽やフリージャズに対しても好きなのか嫌いなのかよくわからないし事実聞いていて辛いことが多い。でも本当にたまに「おやっ?」と思わず顔を上げることがありその時はとても得をした(なんて嫌らしい言葉)気分になる。

15年以上前になると思うが仕事をしながら聞いていたFMラジオから得体の知れない音が聞こえてきた。叫びとも怒鳴り声とも泣き声とも聞こえる近藤等則のトランペットと江戸情緒そのものの端唄が混ざった、あるいは重なった音楽で「The吉原」というアルバムの中の「並木駒形」という曲らしかった。歌は端唄栄芝流家元の栄芝(えいしば)さんで曲の途中に挿入される「お客だよ、お客だよ、アイアイー」という声が目も眩むアバンギャルドだった。

その時は「とんでもないものを聞いちまったなあ」とため息を一つついて忘れたつもりだったのだがその後何かの拍子にあの「お客だよ、お客だよ、アイアイー」が唐突に頭で鳴ることがあって随分経ってからYouTubeで探してみたら動画が見つかった。

栄芝さんは小柄な着物姿の女性で右手にマイクを持ち左手で右手首のあたりをちょんちょんと打って拍子をとっておられるお姿が妙に可愛らしく、その隣で近藤等則が鬼の形相でトランペットを吹き鳴らしている。その映像から伝わるものは「ちょっとしゃれでやってみました」といった半端なものではなく「食うか食われるか、何が起きるか腹をくくって見てみようじゃないか」という音楽世界の冒険者の妖気すら漂い、凄まじいものであった。その栄芝さんを見ていて誰か、それもよく知っている誰かに似ているなあ、と思うのだがどうも思い出せない。頭の中の御婦人のリストをぱらぱらとめくってみるがすっきりした答えがみつからない。

これはもしかしたらお顔が似ているだけでなく全体像なのかなと思い直して映像をもう一度見てみたら「そうか、着物姿なのか」とわかったとたんにどなたに似ているのかの答えがポンと出た。僕の知り合いで着物をよく着ておられるのは千恵さんだけである。

千恵さんこと高木千恵先生は大阪で千恵きもの総合学院という学校を経営されていた。今から20年以上前僕が阪急百貨店で個展をしていたときお供の若い女性を数人ひきつれた着物姿の小柄な女性がいきなり「センセ、私とコラボしませんか」とおっしゃられた。よく聞けば千恵さんの学校の科目の中に組紐教室というのがあって僕のガラスと組紐とを組み合わせて作品を作り展覧会をしたいということであった。それ以来僕は毎年学院のある心斎橋に行くことになる。

心斎橋は梅田と難波を結ぶ御堂筋の真ん中にあり千恵さんの学校はその御堂筋を真下に見下ろすビルの9階にあったから僕はよくそこから見える御堂筋の夕暮れの景色を眺めたり展覧会中でも「ちょっと散歩してきます」といっては御堂筋をあてどなくぶらぶらするのは楽しかった。

僕の脳内ジュークボックスには昭和のご当地歌謡曲が豊富に揃っていてその場所に降り立った瞬間にそのプレーヤーが自動的に始動する。銀座に行けばロスプリモスの「たそがれの銀座」、有楽町ならフランク永井の「有楽町で会いましょう」、瀬戸大橋を車で渡っている時は小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」、神戸なら内山田洋とクールファイブの「そして神戸」これら恥ずかしくなるほどべたべたな昭和歌謡の数々がエンドレスで流れ続ける。御堂筋ならこれは迷うことなく坂本スミ子の「たそがれの御堂筋」である。以前にもちょっとふれたことがあるが僕の昭和歌謡のベスト3に間違いなく入る曲なのだ。脳内で鳴り続けている「たそがれの御堂筋」をBGMに通り沿いに並ぶブランドショップの路面店やら大きな企業の大阪本社ビルに出入りするサラリーマン、ウーマンの姿などを映画の一場面のように見て散歩した映像は僕の脳内アルバムにしっかり残っている。

その坂本スミ子さんが今年2021年1月23日に亡くなった。

大阪は南北に走っている道を「筋」といい東西を「通り」という。御堂筋は梅田、心斎橋、難波という大阪の代表的な賑やかな街を南北に貫く道路に過ぎないのだがなんだか切ない。あれはなんなんだろう、といつも思う。僕自身の個人的な思い出のせいもあるのだろうがやはり道そのものが切ないのだ。それは坂本スミ子という典型的な大阪の女に感じる切なさ、「たそがれの御堂筋」という名曲が半世紀に渡って練り上げてきた切なさ、それらが昭和と言う時代の印画紙に焼け付けた一枚の絵なのかもしれない。

グロスマスターKは僕の珈琲を出し終えた後フリージャズの旗手の一人ドンチェリーのピッコロコルネットを聞きながらいつものごとく心ここにあらずになっている。ドンチェリーも坂本スミ子もほぼ同じ時代1960年代に活躍した。だがこの違いはなんだろう。あるいは違わないのだろうか。

Kの中にも僕の言うところの「切なさ」が時々こだましているのか。それともひたすら無にして空なのか。とりあえず生きて行こう。